第 11 回 白金を調べて海水と堆積物との関係を明らかにする
▼ 自動車や多くの産業に使われる白金▼ 季節変化に見られる白金の濃度差―その供給源は……?▼ 微量元素を量る高感度の検出技術▼ 空への興味から海洋化学研究の道へ自動車や多くの産業に使われる白金
真塩麻彩実さんは地震と津波によって陸から海に流された物質の、中でも汚染物質を調べている班のメンバーですよね。麻彩実さんの研究対象は重金属の中の白金、プラチナ( Platinum )と聞いています。ふつう、日本でプラチナと言うとアクセサリーのイメージがありますけど、なぜ、これを調査研究しているのでしょう?
白金は工業的に非常に多くのところで使用されているんですね。その一つに自動車触媒があります。普通に生活している分には見ることはまずないと思いますが、車の内部に取り付けられています。世界中どの自動車もそうですが、自動車の構造上、触媒がつけられていて、それに白金が使われているのですよ。
車を運転すると、一酸化炭素や二酸化窒素など有害な空気が発生しますが、それをそのまま撒き散らすと大変な大気汚染になってしまいますよね。それで触媒を使って酸化させたりして、無害な空気に変えてからマフラーから排気しています。変えるための触媒の一部に、白金が使われているのです。
【図1:自動車のエンジンと触媒】 白金にはそうした、物質を変える性質があるということ?
そうです。自動車業界では一般的に知られていることですが、かなりの量の白金が自動車の触媒のために使われています。図2は白金の全需要量ですが、採取された白金がどこにどれだけ使われているかという分布を示したものです。自動車触媒として5割が使われていて、ジュエリーには25パーセントくらいです。また、他にも抗がん剤(シスプラチン)などの薬に使われています。
【図2:白金の全需要量】Sobrova et al.(2012)より引用【図3:シスプラチンの構造式】
点滴とかで体に入れる薬の中に白金が? 体の中に摂りこんでいい元素なの?
癌の患者さんにとって抗がん剤に含まれている白金が実際にどんな作用をもたらしているか、ということについて、私は詳しくないのですが、がん細胞のDNA鎖と図3のシスプラチンが結合し、それによってがんのDNAの複製を妨げ、がん細胞を死滅させると言われています。もちろん、吐き気や嘔吐などの副作用がありますが、様々ながんに効果があることから、メジャーな抗がん剤として使用されています。
へえー! 抗がん剤の仕組みを初めて知りました! 白金が化学薬品にも使われているなんて。ところで白金って、土の中から採れるものなの?
ええ、白金は地殻中で最も存在量が少ない元素ですが、通常は陸域にあります。土壌からジワジワ出ているもので、海水中では非常に低濃度なため、正確な測定が困難です。しかし自動車や病院が多い都市域の河川水や沿岸域、例えば東京湾で調べると、白金の濃度が明らかに、他と比べて突出して高く検出されています。それは、こうした自動車触媒や化学工業製品などの物質の流出、人為的な影響が広がっているからと、震災以前からそもそも考えられていました。
では普段だったら、都市部ではない地域、大槌などの東北沿岸域では、白金の濃度がそんなに高く検出されることはなかったわけですよね。それが、三陸の海や大槌湾で大きな地震と津波が起きたので……?
そうですね、東北地方太平洋沖地震の大津波によって、白金などの重金属を含む相当量の陸の物質が海に流れ出たので、湾内で何か影響をおよぼしているかもしれない、と考えました。その一つとして始めたのが、この調査研究です。
季節変化に見られる白金の濃度差―その供給源は……?
水を採る地点は毎回同じと思いますが、その場所を選んだ理由は……?
河川の河口から、湾奥、湾央、湾口までで、いくつかのポイントを設けていますが、現在私は中央の5か所で水を採っています。白金は生物にはあまり摂りこまれないと考えられている元素で、つまり生き物が食べるとか呼吸で使うとか、そこで何か活動が見られるというものではありません。海に拡散していくか、そのまま下に落ちていくか、という動きになりますから、中央の地点を測ればある程度の分布は見られます。
【図4:岩手県大槌湾における採水地点】 では中央の観測地点で……深さごとに量っているのですか?
鉛直分布といいますが、表層1mから、5m、10m、20mと、直上1m(海底から1m)の地点を測っています。場所によっては水深が8メートルしかないところもありますけれどね。震災翌年の2012年5月から始めて、同年の11月、それから震災からちょうど2年後の2013年3月と5月に調査しましたが、2014年2015年は年に1回の5月です。
6回の測定結果はどうだったのかな? あまり白金の濃度が高くない時と、深くなるにつれて高く検出されている時があるみたいだけど……。
外洋から冷たい親潮が流れ込む冬の時期は「混合期」といって、湾内の海水がかき混ぜられ、塩分・水温も均一化されます。そうすると白金の濃度も混ざってしまうのですね。そもそも外洋の水は白金の濃度がすごく低いので、それが湾の中にワーッと入ってきて上下もひっくり返って混ざってしまうと、内湾でも低い濃度のまま一定になってしまうのです。ですから2012年11月と2013年3月は鉛直分布でも濃度差があまりないのですね。
【図5:混合期】冷たい親潮が流入して塩分・水温も均一化されるので、表層と深層の白金の濃度差も小さい。 その後、春先になると、親潮の流入がなくなり湾内の水だけになります。すると水温や塩分の違いによって水の固まり、水塊ができてきます。表層は太陽の光であたためられて温かい水になり、下に行くほど冷たくなっていくのですね。水が層になっていくので「成層期」といいます。
そうです! 巨大なミルフィーユ、クレープの層のような感じですね。そうして水が混じり合わないと、白金も混ざりません。そうすると鉛直分布では、下の方、底の方の濃度が高くなってきます。これはどうしてかというと、下から、海底堆積物からジワジワ出ている分なのです。
【図6:成層期】湾内の水だけになると、水塊ができて水が動かなくなり、海底に行くほど白金濃度は高くなる。 地震・津波と関係なく土壌から出ているもの? 震災後の濃度は問題ではないの?
ええ、沿岸域では震災に限らず出ているものです。親潮が流入する時期も海底堆積物から出ているのですが、湾内の水がかき混ぜられて希釈されているので、見えていないだけなのです。また、今回測定された白金の濃度は、他の湾の研究結果と差はなく、問題になるような値ではありません。
震災の前後で、特別に濃度が上がったりはしていないのですか? 比較できないの?
そこなのです。実は2007年の大槌湾で採った試料が、倉庫から見つかったのですよ。
え! すごい! それで、震災前後の比較ができたというわけですか?
残念なことに2007年のデータは表層水だけでしたが、見比べると明らかに震災後は震災前より高くなっています。表層水だけなので、これ以上の議論は難しくてできないのですけれどもね。しかしこれはやはり、津波でいろいろ流されたけれども、おそらく陸域の物が海底に溜まっていて、そこからジワジワと溶け出ているのではないかと考察しています。
海底からもともと出ている白金の濃度と比較して、問題になるような数値ではないのだけれど、震災前後と比べると明らかに違う、やはりそれは震災によって、白金を含む物質が陸から流れ出て、海底にまだある事を示している、というわけ……。
そうですね、震災後のデータだけを見ていたら、もっと何年も続けて、経年変化を見ていかないとわからないことですが、やはり2007年の調査があったので、わかったことです。
震災後に調査を始めた2012年と、その後の濃度を比較するとどうなのでしょう?
それが、現在はまだ親潮など季節的な変化の方が大きくて、その変化が経年変化によるものなのかどうか、わからない状況です。同じ5月で比較すると2013年と2014年は深度を増すほど白金の濃度が高くなっているのに対し、2015年だけ濃度が低いですが、2015年の5月に関しては成層化が弱いため、外洋海水の影響がまだ残っており、湾内の水が外洋水と混ざり合っていたため、濃度が低いと考えた方がよいと思います。
そうすると、本当の事がわかるのはこれから、というわけですね。
この先ずっと、5月なら5月と同じ時期のデータをとっていった時に、何年も変わらずにこの2015年5月のような濃度の下がったデータがとれれば、そこでようやく「震災前の本来の大槌の海に戻った」と言えると思います。今の時点ではまだ、「戻った」とも「戻っていない」とも言えないですね。データを揃えることが必要なので、今後も採水と分析を続け、時間の経過に伴う比較をしていきます。
微量元素を量る高感度の検出技術
真塩麻彩実さんは白金を分析するための高度な技術を持っていると聞きました。分析ってどんなふうに行うのですか?
私がいる
無機化学研究室は、皆、微量金属元素を扱っています。例えば白金以外にも、亜鉛や鉄、レアアースとか……、存在自体が少なくて、測ることが非常に難しい元素です。そうすると扱うのはいいけれど濃度が非常に少ないので、コンタミネーションといいますが、別の物をちょっと触った事によって汚染されてしまって、何を測っているかわからくなってしまうという事がよくあるのです。
ですから、そういうことをなくすために、私達の研究室では皆ものすごく神経質になって、採水や実験を行う時には必ず手袋をして、使う容器は酸を使って加熱洗浄して、使う物はものすごい手間をかけて洗いに洗っています。実験の容器って金属系の型を使って作っているので、容器自体がそもそも製造工程で汚染源になっていたりするのですよ。それはそれで仕方ないので、だったら洗えばいいでしょうということで、ものすごい手間をかけて洗う事になるのです。
調査船での採水に使う採水器も、2本載せています。私が使っているニスキン採水器は毎回洗剤と塩酸を使用して洗っていて、他の分析するものと分けているのです。船上ではその場でろ過をしますが時間がかかってしまうので、ポンプを使って空気を送り込み、圧力をかけて水を出しています。それもエアフィルターといって、フィルターを通したきれいな空気をチューブからニスキンの中に入れています。
【図7:白金の採取と分析までの方法】 こんな高感度の検出技術や手法を用いて調べることに、何の意味があるの、っていう地元や一般の人の声もきっとありますよね?
ええ、精査することで、「低い数値であっても“数字”としてデータが公表されたら風評被害につながるから、そんな高感度な分析をされては困る」という声もあるでしょう。しかし、
小川班長もインタビューで答えていると思いますが、「高感度測定を続けることで、環境基準値以下の低濃度レベル範囲内でも、例えば時間経過に伴い徐々に濃度が上昇したり、ある特定の海域でいつも高いというようなことがわかれば、それが将来的に環境基準値を超えてしまう前に、警鐘をならすことができる」、そのことに意味があるのです。
そういえば、班長も、「自分たちの研究は、大学病院の精密検査の役割をしている」と話していたなあ。
調査研究を続けるために、地元の方々への丁寧な説明が必要ですよね。
空への興味から海洋化学研究の道へ
麻彩実さんは、東北マリンサイエンス拠点形成事業(以下TEAMS)の調査研究では、大槌湾が拠点ですが、そもそもはどういった研究をしているのでしょうか? 外洋でも白金の分布や挙動を調べているのですか?
そうですね。大気海洋研究所に進んでから、私の研究テーマが白金になったのですが、最初は外洋海水中の白金濃度の研究でした。非常に濃度が低いため測定することが困難で、その分析方法の検討から始めたのです。実際に外洋海水中の白金濃度が測れるようになると、やはり白金の濃度は陸に近い沿岸域の方が高くて、陸から供給されているということがわかってきたので、最近は沿岸域を中心に調べています。大槌湾もそうですが、他の沿岸域も調査することで、大槌湾との比較も行えますし、沿岸域において一般的にどのような白金の供給過程があるのかということも調べる事ができます。
ただ、”外洋は全くやらなくなった”というわけではありません。やはり外洋における白金の分布と挙動の知見も不足していますからね。
実は私、もともと空の方に興味があったんです。雲の形とか、虹の美しさとか、月の神秘性とか……空の不思議に興味があって、気象予報士になりたいと思っていました。それで大学では地球惑星科学科というところに入り、気象学の授業も受講しました。ところが、“一般気象学”という本を使って授業を行ったのですが、1回目か2回目の授業でアレッ?と。完全に物理式、数式の世界で、私が想像していた学問とはかけ離れていて愕然としてしまって。
同じころ2泊3日の乗船実習があって、その時初めて海の上で水を採ったり分析を行いました。海でのフィールドワークが思いのほか楽しくて、それで海のことをやっている研究室に行こう! と思ったのです。
へえー……空への興味が始まりだったとは。 博士号を取得し、研究者として歩み始めたところだと思いますが、今後、どのような研究をして行きたいと考えていますか?どういう研究者になりたいといった目標や憧れとする人はありますか?
やはり海の研究は続けていきたいです。もちろん海洋化学が専門ですが、具体的にテーマはこれ!とは決めていなくて、自然を相手に研究を進めていけたらいいなと思っています。
目標や憧れとする人というか、この人すごいな、と思う人は、渋川春海です。小説『天地明察』の主人公にもなっていますが、日本の暦のもとを作った人です。天文学者であり、囲碁棋士でもあり、幕府に多大な人脈を作りつつ、暦作成の努力を惜しまず、かつ妻をとても大切にした人です。人としても、学者(研究者)としても、囲碁棋士としても素晴らしい人だと思っています。
では最後に、今後のTEAMSでの課題を聞かせて下さい。
海水と堆積物の間における白金の存在状態の関係を 明らかにすることですね。実際にどういうプロセスで白金が出てきているのか。現在の状況でいうと、震災から3年も4年も経っているのに、この数年では白金の出方が変わらないですよね。震災で流れてきたものが何年も下に溜まっていて、そこからジワジワと出ていると考えられますけれども、それはただ単に反応速度が遅いだけなのか、それとも他に何かプロセスがあるのか、そのプロセスが何か見つかったとしてそれがいつまで続くのか。そういう過程を見ていかなければと思っています。データを蓄積していった時、5年後、10年後かわかりませんが、白金濃度の鉛直分布の図が、どこかで左側に移行する、少なくなるはずと考えます。
鉛直分布の図がゼロに近い側に移行していったら……?
そうなった時「震災由来で海に出た白金は、出尽くした」、ということになると思います。
インタビューを終えて
高校時代は囲碁部だったという麻彩実さん。手芸好きで針仕事もよくするということでインドア派かと思いきや、アーチェリー、スキー、旅行と、体を動かすことも好きなアクティブな人でした。現在は海洋化学の道を選んだことに、悔いなし!という様子で海の研究に励んでいます。
2015年10月にご結婚されて「鈴木さん」から「真塩さん」になったばかりですが、「結婚して何か研究に影響しそうな変化は?」と聞くと、単純に「通勤時間が長くなったので、1日の時間割が変わった」。 以前の住まいは研究所から歩いて30分くらい、自転車でパッと来られる所だったので、朝6時頃に研究所に来ていたとか。分析の仕掛けをするまでに時間がかかるけれども、皆が来る前にそれを終わらせ、他の人と実験が重ならないようにするといった、自分のスタイルを確立していたようです。今は通勤に時間がかかるので、そういうことはできなくなったそうですが、今後も麻彩実さん自身が新たな事にどう反応し、化学変化していくのか、楽しみな若手研究者です。
取材日: 2016 年 3 月 14 日 (構成 / イラスト: 渡部寿賀子)